沈黙が続いていた。快適とはいえない各駅停車の旅。
青いシートのボックス席を三人で座る。俺の向かいには、百花と夏音。人気のない車内の席で向かい合いながら、何ともいえない緊張じみた空気に抱かれて時間を過ごす。
「で、あと、どんくらいかかるの?もうすぐ着くの?」
「まだまだだ。お前、調べたんじゃないのか?」
「細かいことは調べない主義なの。あーあ、だるいったらありゃしない」
夏音の言葉に答える代わりに、俺は小さくため息をついた。
正直言って夏音の気分もわからないわけじゃない。同じように疲れていた。溜息の一つも出てしまう。
駅を越えるごとに人が少なくなる。車両には、ほとんど人がいない。俺たち以外には、地元の人がちらほらといるだけだ。
東京に出てから、こんなに人気のない列車で、人里はなれた場所を走るなんてことはなかった。線路の左右にいつでもある家、マンション、様々なビル、道路や別の線路。人がいる。そこは街だ。
ここにはいない。ここは山だ。昔はここにいたのに、今はそれを寂しいと感じる。人のいない列車の中は、まるで世界に取り残されたように冷たく暗い。
街の雑踏。たとえ見えなくても確かにある人の気配。人々が行き交う分だけ薄汚れた街。そんなどうでもいいものを懐かしく思い、田舎の閑散とした列車の席に違和感を覚える。
「だめだぁー」
突然、もう我慢できないといったような大げさな身振りで夏音が声をあげた。
「百花。アタシ少し寝るわ。早起きしたから眠くてしょうがなくってさ」
「いいよ。着いたら起こしてあげる」
「お休み」
夏音は、百花の肩にもたれかかり、そのまますぐに小さな寝息を漏らし始めた。寝付きのいいやつだ。少なくとも眠かったというのは嘘ではないらしい。寝顔がだらしなく緩んでいて、何となく笑える。
けれど、夏音が寝てしまった事で、否応なく俺と百花は互いを意識せざるを得なくなってしまった。
(もしかして、夏音は夏音なりに気をつかって、そうしたのだろうか)
ふとそんなことを考えた。
百花と俺は2年ぶりの再会だ。顔は見た。言葉も交わした。並んで歩きもした。昨日も一昨日も。2年の距離がそれで縮まったのかと言われれば、シビアな答えを返さざるをえない。
2年間の空白──はたしてそれは埋められるものなのか。
「なっちゃんのこと…」
不意に百花が口を開いた。
「ごめんね。かなちゃんに、迷惑ばっかりで」
「百花、“かなちゃん”なんて呼ぶなよ…もう子供じゃないんだしさ」
「……うん、そうだね」
沈黙が落ちる。ボックス席に二人っきりで取り残され、誰もいない車内に空調と車輪の音だけが響き続ける。百花はもともと口数の多いタイプじゃなかったが、「そうだね」といったきり口を閉ざした。余計に口にする言葉が思いつかない。
しかし、黙っていると息がつまりそうだ。さっきの言葉は本心だったが、あえて今口に出すことではなかったと後悔する。夏音は他人顔で眠っている。こいつが起きていれば、やかましくても、沈黙に心を煩わせることなんてなかったろうけれど。
気まずい重さを感じながら、ふと百花に目を向けて、白い陶器のような肌にどきりとする。とっくに過ぎ去っていった過去が見える。まるで夢のように。
音のない学校の渡り廊下。雲のない空から陽が濃い影を焼きつけていた。
肩越しに振り向いた彼女の顔。血の気の薄い淡い肌が、校舎の影と対称をなす。黒い瞳が光と影の間から俺を見つめていた。
二人はよく似ている。
あの時は、木立の彼方から、蝉の声だけが木霊していた。
夏には、いい思い出がない。いつも。
「あ…ねえ、かなちゃん──じゃなくて、逢坂君」
「ああ」
「この2年間、どうしてた?」
列車が走る。動輪が線路と噛み合って硬質な音を立てている。
「どうって?」
「上手く言えないけど。そう、例えば……どんなこと、してた?」
「別に、何も」
俺はまた、視線を窓の外に移した。差し込んでくる陽光が目に刺さるように眩しい。
「普通に学校通って、新しい友達つくって。適当にバカやって、受験の準備して」
「うん」
「みんながやってることをしてただけさ」
「何か変わった事とかあった?」
「いいや、何も。とりたてて話すようなことはないよ」
気が付けば口をついて出る返答はどれもこれも会話を弾ませない、つまらない返事ばかりだ。
あの神社の時とは違う。改めてこうやって差し向かうと、喉の奥に蜘蛛の糸が絡むように、どうしようもなく息が詰まっていく。
「あのね」
百花は俺を見つめていた。奇妙なくらい真っ直ぐに。
「変わったね」
「変わったかな?」
「うん、変わったと思う」
「どう変わった?」
「ちょっと……言いにくい」
上手く言葉で表現できないのか、よくない感想だから口にしにくいのか。もしかしたら、その両方なのかもしれない。
「でも、変わったのは確か」
「昔の俺って、どんなだった?」
「ええと──よくわかんない」
百花がかすかに笑った。まるで昔のように。
ほんの一瞬のことで、次の瞬間には消えていた。目をこらしても、もうどこにも見当たらない。
「そうか。2年だからな」
「うん」
「変わりもするさ」
「……千花がいなくなったから?」
不意に百花の口から出てきた名前に、俺の言葉が途切れた。それは、お互いなんとなく口に出すのを避けようとしていた名前のはずだった。
「仮に千花がいたとしても」
俺は無意識に唾を飲み込んだ。やけに大きく喉がなったような気がした。
「受験して、高校いって、大学目指して勉強して」
「勉強ばっかりしてるの?」
「そうじゃないけど、時の流れに応じてやるべきことをやった。それだけさ」
「だから変わった?」
「多分な」
そう言いながら、視線を百花に戻す。百花はうかがうような目で、俺を見ていた。
「前より陰気になったろ?」
「え?……私?」
「いや、俺の方。暗くなったろ?」
「ん……暗くなったって言うか、落ち着いた雰囲気になった」
「高校生だからな。前よりは大人になるさ」
「そうじゃなくて。もっと、その。なんて言うんだろう」
百花は俺から視線を外して、考え込むような仕草を見せた。
「上手く言えないけど、やっぱり、よくわかんない」
「そうか」

本当は──
確実に自分が変わったという自覚はある。だが、それはこの2年間のおかげじゃない。
何のことはない。
千花が死んだからだ。
あの夏の日の事を憶えている。千花が死んだ日。
あの日を境に、千花の死という事実が、胸の奥に少しずつ染み込んでいくのと同じ分だけ、たぶん心が変わっていった。この世界っていうものが、ひどく不条理で無慈悲で、どうしようもないくらいに残酷だということを理解した分だけ、大人になった。
たぶん、そういうことなんだろう。
昔ほど、つまらない事に夢中になれない。そんなに子供ではいられない。そんな俺の変化を、百花は感じとっているのだろう。
「百花は変わらないな」
「そう?」
「昔のままだ」
「でも……やっぱり、私だって以前の私じゃないよ」
百花は、そのまま口を閉ざす。
千花がいなくなって、俺は変わった。もし、千花がいたら、俺は変わったろうか。
無意味な仮定に何の意味もないとわかっているのに、そんなことをふと考えた。
俺たちは、気まずい沈黙を抱きながら、列車の足音に耳を澄ませるしかなかった。
やがて、早起きがたたってか、俺たちはどちらからともつかず──俺は窓枠にもたれかかり、百花は自分の肩にもたれる夏音の頭にもたれかかり、寝息をたてはじめた。
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